ハンス・ロスリング著の「ファクトフルネス」という本を読んでいます。2018 年の出版なので少し古くなりましたが、コロナ禍の現在、「ファクト(事実)」に基づいて考えることの重要性を説くこの本が注目されています。コロナ禍についての考察はまた別の機会にすることにして、今日は第 1 章「分断本能」の中の「先進国」「途上国」という国の分類のくだりを読んだときに思い出した IPCC(気候変動に関する政府間パネル)での議論についてちょっと書いておきます。
「ファクトフルネス」は私たちがやりがちな思考本能として、「分断」「ネガティブ」「直線」「恐怖」「過大視」「パターン化」「宿命」「単純化」「犯人捜し」「焦り」 を上げています。最初の「分断本能」とは、物事を 2 つのグループに分け、グループ間に決して埋めることができない溝があると思う本能のことです。「保守と革新」「大人と子供」「男と女」などの 2 つのグループの対立、すなわち 2 項対立はよく目にする構図です。私たちがよく使っている「先進国」「途上国」という国の分類もこのひとつです。ロスリングによれば、1965 年頃、世界は明らかに「先進国」「途上国」に 2 分されていたのですが、現在では多くの国は「中間層」に位置し、「先進国」「途上国」という分類はもはや古くなってしまっているというのです。
「ファクトフルネス」では、国民ひとりあたりの 1 日の所得を使って 4 つにレベル分けします。レベル 1 はひとりあたりの 1 日の所得が 2 ドル以下、レベル 2 は 2 ~ 8 ドル、レベル 3 は 8 ~ 32 ドル、レベル 4 は 32 ドル以上です。それぞれのレベルの生活イメージは次の通りです。
- レベル 1:1 日 2 ドル以下で暮らす。約 10 億人が当てはまる。裸足で歩き、拾ってきた薪で火をたき、バケツで水を汲み、地面で寝る。
- レベル 2:1 日 2 〜 8 ドルの所得がある。約 30 億人が当てはまる。鶏を飼い、子供達はサンダルを履き学校へも行ける。灯油ストーブがあり、電気もきている。自転車やマットレスもある。
- レベル 3:1 日 8 〜 32 ドルの所得がある。約 20 億人が当てはまる。水道があり、電力も安定し、冷蔵庫もある。バイクを所有し、毎日違うごちそうが食べられる。子供は高校に通い、家族旅行もできる。
- レベル 4:1 日 32 ドル以上の所得がある。約 10 億人が当てはまる。裕福な消費者である。学校には12年間以上通い、飛行機にも乗れる。自宅では水とお湯が使え、車を持ち、外食もできる。
それぞれのレベルに属する人口から分かる様に、世界の大部分はレベル 2 と 3 に暮らしていることになります。
同じような分類を世界銀行が使用しています。ロスリングは「ファクトフルネス」の講義を世界銀行で 14 回行ったと書いています。その影響なのかは不明ですが、世界銀行の分類は下記の様に国民ひとりあたりの年間所得(GNI)で低所得国(LIC)、下位中所得国(LMC)、上位中所得国(HMC)、そして高所得国(HIC)の 4 つに分けますが、つぎの様に1 日あたりの所得に変換してみると、ほぼロスリングのレベル 1 ~ 4 の分類と同じになります。
- 低所得国:2020年の GNI が 1,045 米ドル以下(1 日あたり 2.86 ドル以下)
- 下位中所得国:GNI が 1,046 ~ 4,125 米ドル(1 日あたり 2.87 ~ 11.30 ドル)
- 上位中所得国:GNI が 4,126 ~ 12,745 米ドル(1 日あたり 11.30 ~ 34.92 ドル)
- 高所得国:GNI が 12,746 米ドル以上(1日あたり 34.92 ドル以上)
こうすると、途上国という一つの分類の中に入っている国々のなかでも相当の所得の開きがあることがわかります。気候変動枠組条約では、世界の国を付属書Ⅰ国(先進国)とそれ以外(途上国)に分けていますが、途上国を所得別で分類すると、例えばサウジアラビアや韓国は高所得国に、中国やブラジルは上位中所得国、インドは下位中所得国、バングラデシュやケニアは低所得国に分類されます(例えば経産省参照)。
さて、私が思い出した IPCC での議論というのは、2014 年 4 月にベルリンで行われた第 5 次評価報告書第 3 作業部会報告書の承認総会で行われたものです。連載講座「海ーエネルギーと環境」の第 2 章のコラムに書いたように、IPCC の評価報告書には「政策決定者向け要約(SPM)」と「技術要約(TS)」という 2 つの要約があり、そのうちのよく使われる SPM は総会で IPCC 加盟国代表によって 1 行ずつ審議され修正や加筆を施し、全会一致で承認されたものです。この承認総会の様子は IISD の ENB レポートで公開されていますし、日本語訳もあります。さて問題の総会の交渉レポートはこちらです。
SPM のドラフトでは世界の CO2 排出量及び排出量増加の傾向を表すのに世界銀行の所得レベルに基づいく国のグループ分けを用いていました。しかし、これに途上国から懸念が表明され議論が紛糾します。IPCC の議決は全会一致が原則ですので、すべての国が納得するまで話し合います。大人数ではまとまるのに時間がかかるため、コンタクトグループという小グループを作って総会と並行して議論を行います。所得レベルに基づく国の分類問題を話し合うコンタクトグループは 3 日間にわたり議論を続けました。途上国から出された反対理由は ENB レポートによれば、「世界銀行由来の分類の使用自体、気候変動の観点からすると関連性がない、ある時点での各国の所得に基づくグループ分けは偏った結果を招く、政治目的で科学が操作されている」というものです。一方の執筆者側の意見は「この指標は、評価した全ての指標の中で GHG 排出量を決定づける最も重要な指標である、新規の分類なわけではない、各国の排出量に所得レベルが与える影響は、政策決定者が理解する上で最も重要な傾向の一つである」と強調し、さらに「WGIII 共同議長の一人は、このような形で結果を示さないなら、IPCC の科学的な信頼を下げることになると警告」します。しかし、途上国側も「政策決定者は新しい気候合意に関する UNFCCC の交渉で SPM から意見を引き出そうとするので、極めて政治的な問題だと強調し、IPCC は政治ではなく科学に焦点を当てるべきだ」と引き下がらず、議論は平行線をたどり合意に達することはできません。そして、激しい議論の末、最終日の深夜に SPM から所得別国分類を用いたすべての図、パラグラフ、参照事項が削除されることになってしまいました。
SPM から所得別国分類は削除されましたが、報告書本文や TS には残っています。排出量増加及び一人当たり排出量を示す図などが削除されたとあることから、例えば TS にあるつぎの図に相当するものが SPM から削除されたことになります。
図を見てみると、2000 年から 2010 年にかけて、高中所得国の排出量が急増し、高所得国の排出量とほぼ同量になっています。高所得国の排出量はこの時期、変化していませんので、この高中所得国の伸びが世界の排出量の大きな上昇を牽引したことは明らかです。しかし、一人当たりの排出量で見ると、高中所得国の値はまだ高所得国の半分程度です。
ロスリングも「ファクトフルネス」の中で述べているように、気候変動については国の排出量のみで議論するのは間違いで、公平性の観点から一人当たりの排出量や累積排出量の観点も加えて議論する必要があります。真ん中の図は、高所得国の一人当たりの排出はまだまだ高く、もっとドラスティックに低減させていく必要性を訴えています。一方、左の図は途上国がクリーンな成長をしていく重要性を訴えているのです。この様に分け方を変えると現実の課題がより明瞭に見えてきます。
果たしてこれらの図を削除する必要があったのでしょうか? この年の年末の COP で新たな枠組みである「パリ協定」が採択されます。IPCC の報告書は COP における議論の場に科学的事実を提供するものとして使われます。途上国グループとしては交渉を少しでも有利にしておきたいという考えが働いたのかもしれません。今年の 3 月 21 日から 4 月 1 日にかけて、オンラインで IPCC の第 6 次評価報告書 WGIII の承認総会が予定されています。このあたりがどのように取り扱われるのかとても興味深いですね。